ピアノ工房トークコンサート 音色ミニコラムvo.2 【工房トークコンサートに向けての検証その2】

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4人のメンバーがピアノ工房で行う、日本ではここだけでしか体験する事のできない個性溢れるレクチャーコンサート。実は裏で色んな検証がされているこの工房コンサートシリーズ。クラシック音楽は想像以上に面白い、というそこら中で目にする言葉ですが、その通り。想像以上に面白いんです。日本ではここでしか体感する事の出来ない個性溢れる、万人のためのレクチャーコンサートを是非体験して下さい!笑いあり、涙ありの2時間。ルールの中にでも音楽は自由に生きるからこそあらゆる固定概念に鋭く切り込みます。全てはコペルニクス的発想の転換から始まる本気の企画です!
 
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熱い議論
 
音色ミニコラムVol.2 【工房トークコンサートに向けての検証その2】

皆さんこんばんは!今日も暑かったですね。そんな中、ユーロピアノ八王子ピアノ工房の2階ではさらに暑い検証が行われていました。

モダンピアノのBechstein M(ca.1950)とフォルテピアノのnach Anton Walter(18世紀レプリカ)を使用し、前者をバッハの調律法で、後者をミーントーンで準備しました。ミーントーンとは、現在私達が一番聴き慣れている平均律ではなく、不等分律(平均ではないの...で色んなところで音程の歪みが発生する。しかし純正律が存在するので天国的な透明感も同時に存在する)の一つで、ルネサンスの時のものですが、モーツァルトが好んで使用していたと言われている調律法の一つです。

全てはここで記せないので割愛しますが、とにかく驚きの連続で、ある種のカルチャーショックさえ覚えます。紀元前のピタゴラスが純正律では解決できない音程のずれを発見してから、試行錯誤して平均律に辿り着くまで約2000年という時が流れます。(個人的にはそこにロマンを感じてしまいます)

様々な作品をみんなで比較演奏し検証を進めて行くと、歴史の大河から生まれた作品は、あらゆる要素との依存関係にある事を知ります。その要素の一つが「調律法」です。要するに当時の調律法から作品を覗く事によって見えてくる新しい響き、表現等が今の我々にとっては新鮮で「目から鱗」なのです。

それらを知るのと知らないとは大きな違いが生まれます。平均律に調律されたモダンピアノを使っていても表現のさらなる可能性を追求したくなり、むしろ追求すべきだと確信するのです。具体例を挙げてみましょう。

モーツァルトのピアノとヴァイオリンのためのソナタは全て調号3つ以内までの調で書かれています。もちろん作品中転調したり、楽章が変わるとその限りではありませんが。その曲集の中でも唯一Moll(短調)で書かれているソナタ第28番E-Moll(ホ短調)。全体を通しとても悲しい雰囲気に満ちていますが、2楽章の途中E-Moll(ホ短調)からE-Dur(ホ長調)へと、悲しい響きから明るい響きに変わるところがあります。

まるで優しく歌う讃美歌の様な天国的な雰囲気なのですが、実際に僕はそこをまるで教会に差し込む光からの誘いを受けているような、神聖な、崇高な気持ちで演奏し、そう表現していました。時には、母親の温もりのような愛に包まれる響きも感じたりしました。

しかしミーントーンは調号4つ以上になると音程の歪みが目立ち、不安定さを生み出させます。E-Dur(ホ長調)は#(シャープ)4つなのです。そう、そこの部分は音程の歪みが目立ち、落ち着かず、優しく歌う讃美歌の雰囲気からは非常に遠いのです。ミーントーンを好んでいたモーツァルト。検証は続きます。

「そこのE-Durをどう理解するのか?」これは大きなテーマです。なぜならもし崇高なイメージであれば、純正律の様なクリアな響きを考慮するのではないかと想像するからです。でも実際はそうではない。クリアな響きからは少し離れている。なぜモーツァルトはこの歪みを存在させたのだろう?なぜこの調を選んだのだろう?楽譜とはまるで作曲家が残した手紙の様でもあり、私達はその楽譜から作曲者のメッセージみたいなものを読みとらねばなりません。そして見えてきたものと自分とを対峙させることにより深い音楽が生まれます。そして、あーだこーだ議論が白熱した時「そう言えばドイツにいた時、よくレッスンで先生がこんなことを言っていたっけ」と話題は移りました。「Dur(長調)で明るい場所だけどそこはSchmerz(ドイツ語:痛み)を感じて」と。長調で明るいのになぜ「痛み」なのだろう?と当時は思ったものですが・・・

結果から言うと、そこのE-Durは痛みを伴ったDurなのです。この作品は母親が亡くなった時期に作曲されました。「親を亡くした心の傷は癒えていない、癒えるはずがない、癒されたいと思う傷を負った心でもある」そんなDurを感じ始めます。そしてミーントーンで調律されたE-Durは歪みだけでなく、「くすみ」の様な暗い響きさえも帯びています。そうなると「痛みを伴うDurの響き」と言うのは深く理解することが出来ます。

さて、ここで終わってしまうとただの検証です。我々が工房トークコンサートで発信している事の一つに「音色における表現の幅」というテーマがあります。平均律で調律されたモダンピアノでの表現に、それらの体験が如何に加味しうるか、という事です。上記の様な体験をしているのとしていないのでは大きな違いがあります。練習でのアプローチの幅が一気に変わります。ミーントーンでの歪みやくすんだ響きをそこのDurで体験する事により、平均律のモダンピアノで更なる表現の幅を試みようとするのです。更なる対話を深め、表現が豊かになり、新しい音楽的な表情が顔を出し始めます。そこまでして初めてこの検証は意味を成します。そうするとモダンピアノでそこを演奏する時に、「Durになった、明るい、讃美歌の様だ」としか感じていなかった、それしか見えなかった僕も、そこに「痛さ」というエッセンスを加え、違った表現をしようとするのです。可能性の引き出しが一つ増えます。

どうですか?「こんな表現も有りでしょう?」と色んな可能性を信じたくなりませんか?私たちはなります。そして更なる問題は、このコラムはもはや「ミニコラム」ではなく論文に近くなり始めていることです。すみません、長くなりました。最後に、これらの体験をしたい方は是非、工房トークコンサートに来て頂きたいです。という宣伝も加えて終わりにしたいと思います。次のコンサートは4月です。あ、しつこいですね。おやすみなさい。

2013/8/12
末永匡

チーズケーキな時間。(レシピ付き)

チーズケーキな時間。
  • クリームチーズ(200-225g)一箱
  • 生クリーム(200cc)一パック※もちろん牛乳でもOK。200ccコップ一杯
  • 卵4個
  • 砂糖大さじ2.5
  • バニラエッセンス少々(なくてもいい)
  • クラッカー(リッツの様なもの)適量(40-45枚)
  • バター80g(日本のバターは225gなので約1/3強)


娘との約束でチーズケーキを焼いた。初めて作業の工程を写真に残してみたが結構楽しい。クックパッドにはまる気持ちが少しだけわかったような。ってことで今回は画像中心です。

それでははじまりはじまり。


リッツが無かったので子供のビスケットを用意。

IKEAで買ったクネッケブレッド(knäckebröd)があったので
これも入れることに。少しでも「健康」を取り入れて・・・。

チーズケーキ作りには関係ないけど、このクネッケブレッド、
丁度IKEAのこのタッパーにピッタリです。

手で適当に砕いた後、ビニール袋を3枚重ねたものに入れる。
なぜ3枚かと言うと・・・

このようにのし棒で叩くと破れて外にこぼれてしまうからです。
どの程度砕くかは好みで。
ザクザク感が好きな人はある程度に留めておくといいでしょう。
細かくし過ぎると、後々バターを入れると硬くなりすぎてしまいます。
個人的にはザクザクがお勧めです。

後でケーキを焼く耐熱ガラスにバターを塗っておきます。
フォークを指すと塗りやすいです。

このハンドブレンダーはとても良いですね。
もちろんミキサーでも良いのですが、片付けを考えると
圧倒的にこちらが便利。

材料たち。

それぞれの量はハカリが無くても出来る量です。
テンポよくどんどんボールに入れちゃいましょう。

一方こちらでは、ザックリ砕いたクッキーを、
バターを塗ったトレイに入れ、バター(80g)を電子レンジで溶かしたものを
流し込みます。こちらも躊躇せず勢いよく行ってしまいましょ。

溶かしバターとクッキーを混ぜるとこんな感じ。
スプーンで整地(?)しましょう。これがチーズケーキの土台となります。

混ぜます。

よく混ぜます。

流し込みます。

とても美しいです。


事前にオーブンは温めておいて、これから45分焼きます。
部屋にはほんのり甘いチーズケーキの香りに満ちるでしょう。
幸せの瞬間です。

焦げ目が付き、割れるぐらいに膨らんだら出来上がり。
後は荒熱を取って萎んだらラップを張って冷蔵庫に入れましょう。
その日よりも翌日の方がしっとりして美味しいです。

こんな感じです。土台のクッキー生地は色んな種類で試すのも一興です。
クルミとかも合うかもしれません。

結局今日食べてしまいました。
子供は待ちきれません。

おわり

 

気分なんてこんなもんさ

泣いてしまいたいと思う時もある。しかし歳と共に段々と涙の量が減っている気もする。泣ければ楽になるかもしれないと思いつつ、目がじんわりと熱くなっていくだけで終わってしまう。胸が苦しいと静かな痛みを訴えているにもかかわらず、どこかで冷めて見ている自分もいる。あぁ、なぜ泣けないのだろう?泣いてしまえば楽になるのに、と思うだけでどこか逃れる場所を見つけた猫のように怯えている自分に満足している。こんな時に音楽を奏でるとどんな音になるのだろう。僕は心と音楽を結び付ける事が出来るのだろうか。それとも結びつけてしまう事が怖いのだろうか。なぜなら、音楽は僕自身を映し出す鏡のようであり、今の僕の真の姿を目の当たりにするのを恐れているからかもしれない。だから僕はピアノも弾けないし、弾きたくないし、だから、僕は泣けないのかもしれない。

と、頭に思いつく順にそのまんま書いてみました。文脈としてのまとまりは無く、気分に任せた文体です。行き先のはっきりしないメロンの皮の模様のような文脈です。解りにくいけどこんな記事もたまにはいい。

 

新芸術企画コラム vol.32 【芸術作品】

  • 新芸術企画とは
様々なアプローチで社会と芸術の在り方を検証し、独自の方法で相互理解と繋がりを広げて行く環境ときっかけを提供するチームです。芸術を「知り、感じる」事により結果、自己を見つめることに気づき、それが自身の人生にどのように作用するか、強く期待するところが大きなポイントです。個のポテンシャルを高める事が自ずと社会、コミュニティへポジティブな変化をもたらすものであると信じています。
 
 
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コラム Vol.32 【芸術作品】

なんとまぁガチっとした感じのテーマだが、なぜこんなタイトルを付けたかと言うと、自分の娘が鼻歌をふふんと歌いながら作ったレゴブロックやら、物を並べたり配置したりする様を見てこう思ったわけです。「めちゃくちゃに見えるけどなんか自然だなぁ」と。そこには規則性もあり、例えば長方形の同じブロックをただただ積み重ねて3つの塔を作ったのだが、良く見ると左側から一段ずつ高くなっている。また、おもちゃのキノコを床に立ててばらばらに並べてるんだけど、そこには...調和を感じたりする。別にこれが芸術なわけではないが、しかし絵画にしても感覚的な詩や物語、音楽作品、コンテンポラリーダンス等にしても一見めちゃくちゃに思える物が、よくよく奥深くを見て感じて行くとそこには「自然なもの」を感じることがある。と言うよりも素敵だなと思う作品は全てある種の「自然さ」を共通して感じる事が出来る。

そうなると自然もまた芸術なのか?となってくるが、時に大自然を目の当たりにした際、「芸術的だ・・・」なんて感動してしまう事もある。芸術の定義をちゃんと出来ないのに(する必要もないのかも)、なぜ僕たちは「芸術的だ」と口走ってしまうのだろう?芸術的って何だ?自然って何だ?

人の感覚と言うのは面白い。どんなに文化や風土、言葉やキャラクター、価値観等が違えど、自然に対する偉大さや家族への愛、道端に咲く一輪の花を綺麗だと思う気持ちは変わらない。芸術とはその部分に「僅かながら」含まれているのかもしれない。

理屈を超えて共感し得るものの一つに芸術もあると思うのだが、それはもっと現社会に役立つことは出来ないものか?芸術と言えば構えてしまうかもしれないが、それは自然なことでもありうるからこそ、身近な物でもある。その普遍性を、その共感性を感覚として理解し得た時に、芸術は社会にとって大きな人間的な心の繋がり、支えとして、その役割を担う事が出来る。無論、これだけのためではないが、そう在りうる事の1つとして・・・。

社会における音楽芸術の可能性の一つとして、世界的音楽家であるダニエル・バレンボイム率いるウェスト=イースタン・ディヴァン管弦楽団の活動を挙げたい。政治的には今のところ困難である事を芸術により一石を投じることに成功した具体例である。ご興味ある方は是非DVD「知る事、それが始まり」を観て頂きたい。

なんて事を娘のおもちゃを見て思ったわけです。

2013/8/7
ピアニスト 末永匡